メモ 2013.10.10~

「誤った日本語」について調べてみます。

1-4「正鵠を得る」「正鵠を射る」の用例

この記事では、「正鵠を得る」と「正鵠を射る」の初出について調べてみます。

日本国語大辞典』第2版 第7巻 (2001年 小学館) の「せいこく を 得 (え) る」の項 (p.1172) には、初出として北村透谷「内部生命論」 (1893年) の用例が載っていました。これより古いものがあるかを調べてみたところ、1884年の用例がありました。

※用例・文献の引用方法について

1884年

此說ノ正鵠ヲ得タルハ只國家ノ覆亡トハ何ノ言ナルカヲ考フレハ則チ明ナラン

(文部省翻訳局 [訳] 仏郎都『国家生理学』第2編 p.241 4行目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990800/126
国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より
※2016年6月10日追記:「日国友の会」に投稿済 (こちら)

 

また、同辞典の「せいこく を 射 (い) る」の項 (同頁) には、梶井基次郎Kの昇天」 (1926年) の用例が初出として載っていました。これより古いものを調べたところ、以下の用例が見つかりました。

1916年

〔前略〕苟クモ登記ノ取消サレサル間ハ會社ノ法人資格ハ他人ニ對抗スルコトヲ得」ル旨ヲ判示シタルハ理論ノ正鵠ヲ射タルモノニ非ス

(片山義勝『株式会社法論』中央大学 p.313 1行目) [1917年 第2版]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956703/173
国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より

※p.542 17行目に「正鵠ヲ得」の用例あり。

 

1909年

ヰルビー氏一般意志を論じて曰く、一般意志とは個人意志の總束に名けたるものに非ず、ルーソーが之を分ちて、一は公共利害に關し、他は私人の利害に關すといへるは、論理上の矛盾を免れざるものあれども、說いて稍正鵠を射たるものと云ふべきか。

(江部淳夫『文明論』金港堂 p.249 7行目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798681/142
国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より

 

1906年

今之を批判して吾人の見解を立せむに、積極論者は過去の說明に於いて頗る其正鵠を射たるに幾きも、將來の說明、及多分近き過去の說明に於いても、論旨往往過論に馳せ去りたるものに似たり。

(建部遯吾『戦争論』金港堂 p.257 5行目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/785589/134
国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より

 

また、「正鵠を射る」は、1911年刊行の『誤用便覧』 (文栄閣 p.253) にも載っていました。同書は「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できます (下記リンク参照) 。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/862888/153

※書名に「誤用」とありますが、「正鵠を射る」が誤用例として扱われているわけではありません。

 

「正鵠を得る」と「正鵠を射る」の初出は、約20年差まで縮まりました。ただ、「神戸大学附属図書館 新聞記事文庫」 (http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html) の検索機能を使って、戦前の新聞記事で使われた用例を数えてみると、「正鵠を得」が300例以上ヒットするのに対して「正鵠を射」は1例しかないので、戦前は「正鵠を得る」が主流だったといえそうです (当ブログ第2章参照) 。


2015年2月17日追記:

その後、1887年の「正鵠を射る」の用例を見つけました。これで、「正鵠を得る」と「正鵠を射る」の初出は、ほぼ同時期となりました。

1887年

今般又師範學校中學校等ニテハ人品氣質即チ陶成ノ結果ト勞力即チ授業ノ結果トヲ以テ生徒ノ優劣ヲ判定スルコトヽナリタルハ實ニ當然ノ事ニテ是ニテコソ敎育ノ正鵠ヲ射ルコト期シテ竢ツヘキナリ

(吉見經綸「人品陶成ノ事ヲ論ス」『大日本敎育會雜誌』第67号 大日本敎育會事務所 p.754 下段5行目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1569071/9 (国立国会図書館内限定公開)

国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より
※2016年6月10日追記:「日国友の会」に投稿済 (こちら

久御山