メモ 2013.10.10~

「誤った日本語」について調べてみます。

1-6「当を射る」「当を外れる」の用例

「的を得る」は、「当を得る」と「的を射る」とが混交して (混ざり合って) 生まれたものである、とよく説明されます。それでは、「当を射る」という語形も存在するのでしょうか。調べてみたところ、1958年の用例が見つかりました (正確には「当を射あてる」の用例ですが) 。

※用例・文献の引用方法について

1958年

しかし、ここに藤村の屈した性感情のよつて来る由来をきわめることのできなかつた批評が、当を射あてるはずがなかつた。

(吉本隆明「日本現代詩論争史 Ⅴ 若菜集の評価」『現代詩』第5巻 第1号 書肆パトリア p.105 下段16行目) *1
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1852668/54 (国立国会図書館内限定公開)
国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より

 

これ以降の用例としては、以下のものが見つかりました。

1959年

物品の消費について税金をとるのであるから、本来その税金は消費者が負担するものであり、消費者に確実に転嫁されてはじめて消費税として当をいたものと云える。

(石川通「物品税法の改正案が提案されるまで ―公約はこうして具体化される―」『政策月報』第38号 自由民主党出版局 p.55 下段2行目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1385564/29 (国立国会図書館内限定公開)
国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より

 

1965年

この批評が当を射たものか否かは別として,YAPの力動的立場から見れば,内村氏らの論文がもの足りなく映じたに違いない。

(和田完「Imuに関する若干の問題」『民族学研究』第29巻 第3号 誠文堂新光社 p.266 右段37行目) *2

 

1979年

軍が、第二十四師団を第六十二師団の第一線の増強に使用せずに、第二線陣地帯に使用したのは (後述) 当を射た方法と思われる。

(大田嘉弘『沖繩作戦の統帥』 相模書房 p.466 下段1行目)

 

1979年

そしてこの視点が(とう)()ているとすれば、非行少年には〝ひとりっ子〟が圧倒的に多い、もしくは〝ひとりっ子〟に高い非行化率が見られるはずだ、ということである。

(千田夏光『暴力非行 学園・家庭内暴力―非行少年を追って』汐文社 p.192 10行目)

 

1982年

以下においては、こうした批判が当を射たものであり、したがって、拡張統一補償説は、ドグマーティッシュにみて、支持されえないものであったかどうかを究明することにしたい。

(宇賀克也「ドイツ国家責任法の理論史的分析 (三) 」『法学協会雑誌』第99巻 第6号 法学協会事務所 p.888 16行目)

 

次に「当を外れる」の用例を採集してみました。

1941年

よつて、この「手習鑑」以下の名篇が、千柳との合作時代に於いて生じたからといつて、千柳をを擧げんが爲に、出雲を默過する事は、當を外れた見解であると信ずる。

(守随憲治『義理』 甲鳥書林 p.311 2行目)

 

1945年頃

彼はこの頃から俳句の世界を好んでゐるのですから、無理に推論したこの三つの原因も余り当を外れてはゐないと信じます

(吉本隆明「孤独と風童」『吉本隆明全著作集』第15巻 [初期作品集] 勁草書房 p.297 19行目) [1974年 刊]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1674449/158 (国立国会図書館内限定公開)
国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より

※上記論文の執筆時期については、p.491の「解題」で「昭和二十年に執筆されたものと推定される」と解説されています。

 

1958年

以上の勧告は当を外れた点もないではないが多くの点で傾聴に値するものがあり,保健所の弱点をついている点が少くない.

(田中正四・矢野勝彦 [共著]『老人医学入門』南山堂 p.191 9行目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1377148/105 (国立国会図書館内限定公開)
国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より

 

1965年

もっと正しくいえば、サドにおける性的なるもの自体が奇怪で危険で、人間の心を性的満足の逆の覚醒にみちびくからこそ、春本の疑いはまったく当をはずれているのである。

(大江健三郎「性の奇怪さと異常と危険」『厳粛な綱渡り 全エッセイ集』文芸春秋新社 p.241 下段14行目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1672256/124 (国立国会図書館内限定公開)
国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より

 

1968年

ここで、そのような問いを提出することは、けっして、(とう)をはずれたことではあるまい。

(増谷文雄「第一部 知恵と慈悲の源流」『仏教の思想』第1巻 [増谷文雄 梅原猛 共著] 角川書店 p.165 本文12行目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3018512/87 (国立国会図書館内限定公開)
国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より

 

今回調べた限りでは、「当を射る」「当を外れる」は、「的を得る」や「的を失す」に比べ、使われ出した時期は遅く、使われる頻度も低いように思われました。しかし、実際に使用例があることは分かりました。

ちなみに、標準的な慣用表現である「当を得る」「当を失す」は、『日本国語大辞典』第2版 第9巻 (小学館 2001年) に掲載されており、ともに19世紀後半の初出例が引用されていました。

*1:※この論文は、『吉本隆明全著作集』第5巻 (勁草書房 1970年) に収録されています。そこでは「しかし、ここに藤村の鬱屈した性感情のよって来る由来をきわめることのできなかった批評が、当を射あてるはずがなかった。」 (p.107) となっていました。
吉本隆明擬制の終焉』 (現代思潮社 初版1962年 第21刷1973年) に「もちろん、現代のすすんだ観点からは、朔太郎の批判はほぼ的を射ぬいていた。」 (p.250) という記述あり。
吉本隆明『模写と鏡』 (春秋社 1964年) に「〔前略〕文学としても政治としても当を得ていない。」 (p.82) という記述あり。

*2:2019年10月12日追記:論文がネットに公開されていました。
https://doi.org/10.14890/minkennewseries.29.3_263

久御山