4-1-2「的を得る」について述べられた文献 (後編)
前回に続き、「的を得る」の正誤について書かれた文献を見ていきます。今回は、1990年代以降に発表されたのものを挙げていきます。
1990年代の文献
言語学者の国広哲弥先生が著書のなかで、「〈的を射る〉〈当を得る〉の混交説」について「以前から広くいわれてきたことである」とお書きになっていました。この頃には、この説は専門家の間では常識となっていたのでしょう。
1991年
「的を得る」という表現が「
(国広哲弥『日本語誤用・慣用小辞典』講談社 p.180)
また国広先生は、著名人による「的を得る」の使用例として、梅棹忠夫『日本とは何か』 (1986年) を挙げられています (当ブログ 1-1-4 参照) 。
1990年代にも、「的を得る」と方言の関係について触れている文献がありました。こちらは、前の記事で挙げた『現代日本語』 (1973年) の内容よりも具体的な説明になっています。
1992年
②イとエの混同
海岸方言ではイとエの区別は
これは一部地域での方言の観察報告ですが、全国で使われている「的を得る」の発生原因を「〈イ〉と〈エ〉の音の混交」のみで説明するのは、無理があるでしょう。
原義 (「的に向けて矢を 放つ・当てる」の意) の「的を射る」が「的を得る」と発音されることは、あまりありません。また、例えば「弓を射る」の意味で「弓を得る」が使われることもないと思います。単なる音の混交が原因だとしたら、こうした表現にも影響が出ているはずです。「音の混交説」だけでは、混交が慣用句の「的を 射る/得る」に限定して発現している理由を説明できません。
専門家以外による見解としては、新聞社の取材によるレポートがありました。
1998年
〔要約〕
- 「的を得る」は「的を射る」の誤用。
- 「的を得る」を初めて載せた国語辞典は『三省堂国語辞典』第3版 (1982年) 。同辞典では、「的を得る」は誤用扱い。
- 「的を射る」を初めて載せた国語辞典は『辞海』 (三省堂 1952年) と思われる。
- 「的を得る」の誕生について国語学者の
林大 先生が、「正鵠を得る」の影響が大きい、とご指摘。
(石山茂利夫『今様こくご辞書』読売新聞社 pp.94-98)
著者の石山茂利夫さん (執筆当時は読売新聞社・新聞監査委員会委員) は、軽々に「かくかくの言い方は誤り」とは言わない (書かない) 方でした。ですから、石山さんが記事の冒頭で「「的を得る」は、「的を射る」の誤用だ。」 (p.94) とお書きになっていたのは、少々意外でした。また、上掲書では、「正鵠を得る」と「的を得る」の関連性についての記述もありましたが、なぜ「正鵠」は「得る」と結びついてもよいのに、「的を得る」は誤用とされるかについての調査が不十分に思えました。
2000年以降
2000年代に入っても、「〈的を射る〉〈当を得る〉の混交説」を挙げる文献が多く見られました。代表例を1つだけ引用します。
2000年
〔「的を得る」という言い方は、〕正しくは「的を射る」。意味は「的確に要点をとらえる」ことである。ところで、また「当を得る」という言い方がある。この意味は「適切な」ということで、「的を射る」の意味とも近い。そのために、両方がゴッチャになってしまって、「的を得る」ができてしまうのである。
(佐竹秀雄『サタケさんの日本語教室』角川書店 p.82)
この考えは、近年ではすっかり「定説」となったようです。「定説」と鍵括弧でくくったのは、この説を実証する学術的な調査 (言葉の来歴の調査等) を、私はまだ見たことがないからです。
インターネット上では、駿台予備校講師・中谷臣先生による「的を得る」擁護論 (こちらのページの中ほど) がよく知られるようになりました。これに対し、辞書研究家の境田稔信さんは、次のような反論をされています。
2004年
これ〔「的を得る」を誤用とする考え方〕について、駿台予備校の中谷臣氏 (世界史) は「的を得る」を間違いとするのは無知だとホームページで述べている。
〔中略〕
〔中谷氏が言うように〕「的を得る」から「的を射る」になったにしては「的を得る」の古い用例が見つからないようだ。
〔中略〕
「的を射る」だけでは当たったかどうか分からない、と中谷氏はいう。しかし、矢を射るだけでなく、「的を射る」といえば当たったことも意味する。〔※当ブログ 3-5 の「射る」の項参照〕
〔中略〕
いずれにしても、「的を得る」という表現は『日本国語大辞典』の初版にはなく、第二版になってから載ったものの、ほかの国語辞典には掲載されていないので、一般的なものとは言いがたい。
(境田稔信「「腑に落ちる」と「的を得る」」『いんてる』第105号 日本校正者クラブ p.8)
このように、辞書にほとんど載っていないことを理由に「的を得る」の正当性を認めないご意見がある一方で、下記のように、たとえ一部でも辞書に載っていることを理由に、「的を得る」の誤用判定を撤回した例もありました。
2010年
〔概要〕
平成23年度の堺市立学校教員採用選考試験で、「的を得た」の正誤を問う問題が出されるも、「この表現は一般的には誤用と考えられるものの、一部の辞書で慣用句として掲載されていることが判明し、誤用と断定することは困難であると判断した」ため、「正答なし」として扱われることとなった。
(「平成23年度堺市立学校教員採用選考試験 一般・教職教養試験(択一式)問題の正答の扱いについて」 [PDF] 堺市 教育委員会事務局 総務部 教職員課 )
※堺市サイト (報道提供資料 平成22年7月30日 金曜日) より
※2014年9月25日追記:上記PDFファイルがサイトからなくなっていました。
ただ、これは試験の妥当性に関わる案件なので、一般論としての言葉の正誤の問題と同列には語れないでしょう。
昨年の新聞コラムに、「的を得る」に関する話が載っていました。法政大学社会学部教授の金原瑞人先生よれば、近年、学生が「的を得る」を避けて「的を射る」を使うようになってきたとあります。
2013年
大学のゼミで創作を教えていて、この頃、不思議なのは学生が「的を射る」という表現を使いたがることと、ほぼ100%、「的を得る」という間違いをおかさないことだ。ワープロソフトの性能がよくなったせいもあるんだろうけど、大学生に「的を射る」と正確に書かれると、むっとする。ぼくなんか30歳をすぎるまで間違えて使っていたからだ。だから、若いくせにこんな古くさい言葉を使うなとかいってしまう。が、内心、驚いているのだ。
この傾向は、文化庁が発表した「国語に関する世論調査」の調査結果とも符合します (文化庁の調査については 4-3 で取り上げます) 。「言葉の誤用」は、一般には高齢層よりも若年層で多く見られる傾向にありますが、「的を得る」の場合は逆転現象が起きているわけです。
インターネット上の情報
「的を得る」を「〈的を射る〉と〈当を得る〉の混交による誤り」と解説しているサイトは、
- 「よく聞くまちがい」(NHK放送文化研究所)
http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/uraomote/110.html
(※NHKオンライン http://www.nhk.or.jp/ より)
など数多くあり、枚挙にいとまがありません。
こうした「定説」に異を唱えるものとして、インターネット上では、前掲の中谷臣先生のご意見がよく知られていますが、これは日本語の専門家による見解ではありません。
言語学者や辞書編纂者などのご意見で、「定説」を疑問視している例としては、次のものがあります。
-
神永曉さん (小学館国語辞典編集部編集長) ブログ「日本語、どうでしょう?」
http://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=8
(ジャパンナレッジ http://japanknowledge.com/ より) -
飯間浩明先生 (日本語学者・『三省堂国語辞典』編纂者) ツイッター
(当ブログ 3-3 参照)
※飯間浩明『三省堂国語辞典のひみつ』 (三省堂 2014年 pp.30-32) にも、「的を得る」についての記述があります。
※2016年5月19日追記:『考える人』2015年秋号 (新潮社) に、「的を得る」などに関する飯間先生のご意見が掲載されていました。
記事はWeb上 (http://kangaeruhito.jp/articles/-/1627) で公開されています。 - 尾谷昌則先生 (法政大学 文学部 日本文学科 准教授) ツイッター
https://twitter.com/masanori_odani/status/7788963431452673
まとめ
「的を得る」を「誤用」とする考えは、1970年代から広まり始めたようです。それらの多くは「〈的を得る〉は〈的を射る〉と〈当を得る〉が混ざったものである」と解説しています。今回はほとんど引用しませんでしたが、ここ数年に出版された「正しい日本語」関連の本でも、同様の傾向が見られます。その他、方言による影響 (イとエの音の混交) を指摘するもの、「正鵠を得る」との関連性を指摘するものがありました。
「的を得る」誤用説を疑問視する意見は2000年代から目立ち始め、近年では有名辞書の編纂者からも「非・誤用説」が唱えられるようになりましたが、今のところは少数意見のようです。
「的を得る」は40年以上も前から問題視されてきたにもかかわらず、この慣用句に関する本格的な学術論文等は見つけることができませんでした。私が探した限りでは、ある程度まとまったものは、上掲の石山茂利夫さんによる記事 (1998年) があるだけでした。ただし、これは学者の論文ではなく、新聞記者の記事が単行本化されたものです。
石山さんはこの本のなかで、「変化しつつある言葉を考える場合に必要なのは、好奇心を欠いた〝ご託宣〟よりも、その言葉が適切かどうかを判断する情報だ」 (p.2) とお書きになっています。言葉の正誤の問題は、用例 (実例) などの、具体的・客観的な情報に即して論ずる必要があるでしょう。