メモ 2013.10.10~

「誤った日本語」について調べてみます。

4-2「正鵠を得る」について述べられた文献

続いて、「正鵠を得る」について書かれた文献を見てみます。この表現は、「的を得る」ほどではありませんが、次のように「誤用」と指摘されることがあります。

※用例・文献の引用方法について

1977年

また「正鵠を射る」であって得るではない。正鵠は弓の的の中央の黒ぼし。ねらいどころ。物事の急所、要点の意味である。

(村石利夫『日本語の誤典』自由国民社 p.191 2段目)

 

1998年

正鵠は、弓のまと、まとの中心。転じて物事の要所・急所。「正鵠を失わず。」 (『礼記』射義) などと使う。また、「正鵠を射た意見」などとも。「正鵠を得た」は、「的を得た」と同様、あり得ない表現。

(後藤秋正「現代言葉遣い小考 (三) ―国語を教える者の自戒のために―」『札幌国語研究』第3号 北海道教育大学札幌校国語国文学科 p.38 上段7行目)
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2613 (リンク先にPDFファイルあり)

北海道教育大学学術リポジトリ (http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/) より

 

2003年

「正鵠を射る」の正鵠は的の中央の黒星のこと。だから「射る」が正しいと考えていたが辞書にも「正鵠を得る」とされ「射るとも」と書き添えてあるのが現状である。「当を得た」との混用ではないか。この分では「的を得た」の言い方もやがて認められるのだろう。

(井中一蛙 [本名:岡橋隼夫] 『大いに日本誤を語る』新風舎 p.40 10行目)

※著者略歴 (p.143) に「大手出版社にて編集長・校閲部長歴任」とあり。

 

(2016年1月27日 追加)
2005年

正鵠(せいこく)() 〔中略〕用 法 文型「ダレダレが正鵠を射る」。誤って「正鵠を得る」とも言う。

(米川明彦・大谷伊都子 [編] 『日本語慣用句辞典』東京堂出版 p.212)

 

2007年

 また、同じ地域内であっても、時間の経過だとか、社会階層の違いだとか、年齢差などによっても、もとの意味合いと違ったものになって、かつては間違いとされていた言葉が、「正しい」と認知されるなんてことはしょっちゅうあることだと、認識してはいます。広辞苑 (三版) にだって、「一懸命」だとか「正鵠をる」なんてのが、見出し語として載っているんだもの、「ら抜き言葉」が正しい言葉になるのも、時間の問題だとは覚悟しています。
〔「生」と「得」への下線は、原本では傍点〕

(くぼあきら 『あげあし鳥の憎たれキーワード55 』クレイ企画事務所 p.183 1行目)
http://books.google.co.jp/books?id=2QS3NCoBFxYC&lpg=PP1&hl=ja&pg=PA183#v

※「Googleブックス」 (http://books.google.co.jp/) より

興味深いのは、漢文学・日本語学の専門家やプロの校閲者のなかにも、「正鵠を得る」が誤りであるとお考えの方がいらっしゃるということです。

 

これに対し、「正鵠を得る」は誤りではない、という見解も多く見られます。

1976年

〈質問〉
 第一集〔『日本語の現場』第1集〕の漢字テストの表の中に「正鵠を得た判断」とあるのは「射た」の誤りではないか。〔読者からの質問〕

〔中略〕

〈回答〉
 岩波国語辞典、日本国語大辞典は「得る」、新明解国語辞典講談社国語辞典は「射る」とし、それぞれの用例をあげており、辞書の世界では「得る」も「射る」も認められている、といえそうだ。

〔中略〕

出題者の斎賀秀夫国立国語研究所言語計量研究部長に聞くと、「両方使われた例があり、どちらが正しい、どちらが誤りとは言えない」という。
 斎賀さんの話――正鵠には、弓の的、的のまん中にある黒点、という意味があるから正鵠イコール的という意識しかなければ『射る』という言い方しか出て来ないかもしれない。しかし、もうひとつ急所とか物事のかんじんな部分という意味があり、『正鵠を得る』という慣用句ができている。また、礼記には『正鵠を失せず』とあり、その反対概念として『得る』が出て来たとしても不自然ではない。

(読売新聞社会部 [編]『日本語の現場』第2集 読売新聞社 p.183 上段5行目)

 

1978年

 なお、「的を射た」という表現を、もう少し含蓄のある表現にするなら、「正鵠(せいこく)を失わず」「正鵠を得る」ということになる。
 正鵠とは、弓の的の中央の黒い円の部分のことであるという通説から、「正鵠を射る」と言う人が増えたのは、「的を射る」と考え合わせると、おもしろい現象だが、これは新しい言い方だということを知っておく必要がある。

(大野透『日本語の勘どころ』祥伝社 p.16 4行目)

 

1998年

「ぼくもあれから考えましたが、現時点では、もとは『正鵠を失す』ということになりますね。正鵠は的なんだから、『〔正鵠を〕射る』も間違いではないが、伝統的な言い方となると、『〔正鵠を〕射る』よりも『〔正鵠を〕得る』。対応語の『失す』の出典がありますからね。一つだけ用例を挙げるとすれば、だから『得る』の方がいい」

国語学者林大(はやしおおき)先生 談〕

(石山茂利夫『今様こくご辞書』読売新聞社 p.98 4行目)

 

2004年

 現在の国語辞典には「正鵠を得る」と「正鵠を射る」の両方が載っている。〔中略〕「正鵠を得る」だけを載せるものは八点、「正鵠を射る」だけを載せるものは十七点である。また、見出しと付記とに差を付けて載せているものも含めると前者は十二点、後者は二十五点になる。
 正鵠の場合は「失う・得る」の対応だったはずが、今や「射る」が優勢になってしまった。

(境田稔信「「腑に落ちる」と「的を得る」」『いんてる』第105号 日本校正者クラブ p.8 2段目14行目)

 

2012年

「正鵠を得る」と覚えている人も、少なくありません。一般的にこれはまちがいだと思われがちですが、じつは必ずしもそうとは言いきれません。というのは、そもそもこの言葉を口にした孔子は、「射る」でも「得る」でもなく、「正鵠を失う」という表現を用いたからです。

(造事務所  [編著]『すっきりわかる ! 超訳故事成語」事典』PHP研究所 p.77 本文3行目)

 

これらの見解をまとめると、「正鵠を得る」を正用とする理由は、

  1. 中国古典を典拠とする、「正鵠を失す (失う) 」と対義関係にあるため
  2. 伝統的には、「射る」よりも「得る」の方が広く使われてきたため

となるでしょう。

このうち  1. については、中国古典の素養がある有識者のなかにも、「正鵠を得る」の語形を認めていない例があります (上述の後藤秋正先生の論文を参照)  。

また 2. については、客観的な事実と言えます (当ブログ 2-1 参照) 。とはいえ、近年では「正鵠」の語そのものが一般的ではなくなり、たとえ使われたとしても、「射る」との組み合わせが優勢になっているのも、また事実です (上述の境田稔信さんの記事および、当ブログ 2-2 参照) 。このように、近年「正鵠を得る」の語形が劣勢になりつつある事実が、「的を得る」の正誤の問題にも影響を与えているのでしょう。

久御山