1-1-4「的を得る」の用例(有識者によるもの)
次に、国語学者や文学博士など、有識者が使った「的を得る」の用例を挙げてみます。当然ですが、なかには誤植や編集者による書き換えもあるかもしれません。
1967年
〔前略〕そこだけに着目するならば、西山氏の立論は確かに的を得ていると言えるであろう。
(安川定男『有島武郎論』明治書院 p.279 17行目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1348249/148 (国立国会図書館内限定公開)
※国立国会図書館デジタルコレクション (http://dl.ndl.go.jp/) より
1968年
自然が人間を追いつめる存在であり単なる背景ではないという指摘 (註12) は、その意味ではまことに的を得たものであるが、しからば自然と人間とが、なぜ戦う関係として把握されているのかという問に対する答としては、このアダム像にみられる自然と抗争する者のイメージが、有島の対自然観――人間観の中核をなしているということができよう。
(宮野光男「有島武郎研究 ―教会退会後の自然感をめぐって (二) ―」『近代文学試論』第5号 広島大学近代文学研究会 p.7 上段15行目)
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00015652 (リンク先にPDFファイルあり)
※広島大学 学術情報リポジトリ (http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja) より
※入谷仙介・松村昂 両先生による、『寒山詩』の通釈の一部分です。
※原文は「中庸讀我詩 思量云甚要 (
1979年
それは、一九には実際上方生活の体験があり、執筆のための実地踏査も試みているが、事実は越谷吾山の『物類称呼』など先行書を利用し、耳学問的知識に基づいていかにも本当らしく仕立てあげたというのがおそらく的を得ていると思われるからである。
1981年
この〔
この時はじめて日本に
1982年
少なくとも,言葉の仕組みという点に限るなら,O氏の抗議は必ずしも的を得たものではない,ということになるわけである。
(原口庄輔『ことばの文化』こびあん書房 p.164 12行目)
1982年
以上のように,「的確に」とは通例,的を得たように,その場の話や文脈に沿って確実に,というTPO性が話し方や文章理解で要求されている。
(村石昭三「 9 話すこと・聞くことの能力の評価 (1) 正しく聞き,的確に答えることの評価・1 概説」『表現事項事典』全教図 p.294 右段9行目)
1983年
それはとにかく、荀子はこの論以外でもしばしば、諸家の思想を批判し、ここに見える以外の申不害・老子・荘子などにも、的を得た短評を加えています。
(赤塚忠「中国古代思想史」)
[『中国古代思想史研究』研文社 1987年 所収 p.388 9行目]
※章の最後に「長時間お聞きいただきましたことを感謝します。」とあるので、講演を文章化したものかもしれません。
1983年
これは極めて鋭い洞察を含む見解であり、高く評価すべき意見であって、ただ時運の要求に応じて漢字を減らしたりふやしたりしている文部省に対し、適切な、的を得た批判であった。
(大野晋「国語改革の歴史 (戦前) 」『日本語の世界16 国語改革を批判する』 [丸谷才一編] 中央公論社 p.64 2行目)
※文庫版の『国語改革を批判する』 (中公文庫 1999年 p.75) でも「的を得」のままになっています。
※大野晋『日本語と私』 (朝日新聞社 1999年 p.207 5行目) には「その質疑は的を射ていた。」という記述があります。
1985年
原著から得た知識、理解出来たと思ったことは、何をおいても実際に外国に出向いた上で、そこの社会を深く観察し、人々から直接話を聞き、果して自分の理解が的を得ているかどうかを、様々な方法を使って、いろいろな面からチェックしなければ、本当は安心出来ないものである。
(鈴木孝夫『武器としてのことば 茶の間の国際情報学』新潮社 p.285 15行目) [1990年 第10刷]
※岩波書店版の『武器としてのことば』 (鈴木孝夫著作集4 2000年 p.286) でも「的を得」のままになっています。
※鈴木孝夫『あなたは英語で戦えますか』 (冨山房インターナショナル 2011年) のp.71 (横組みの頁) には、「ことばは多くの人々の使用を経て、的を射たものになっていくのでしょう。」という記述があります。
1986年
しかし、江戸時代をよりふかく検討するならば、この種の解釈がけっして的をえたものでないことがわかるのです。〔p.86 5行目〕
わたしの話を注意ぶかくおききくださったみなさん方には、このような解釈がいかに的をえないものであるか、よくおわかりいただけたとおもいます。〔p.129 2行目〕
※p.129の用例は、国広哲弥『日本語誤用・慣用小辞典』 (講談社 1991年 p.180) で取り上げられていました (当ブログ 4-1-2 参照) 。
※『日本とは何か』は、その後『梅棹忠夫著作集』第7巻 (中央公論社 1990年) に収められましたが、そこでは2例とも「的を射」に置き換えられていました (p.532、p.564) 。
1986年
しかも、『古譚』の二篇について、〈理智的な作品〉とか〈気品があ〉って、〈悪ふざけでない面白さ〉があると見てとっている点は、的を得た評語であろう。
1987年
窪田の文芸味豊かな精細な評釈、武田の簡明にして的を得た評語、土屋の意表をつく大胆な作意の考察、三種三様まことに個性豊かである。
1989年
〔表曆〕なぜ表と曆が一對の言葉として題目となっているかは、浦起龍の「表は世系、年月を以て行次と爲すが故に曆と曰う」という說明が的を得よう。
(西脇常記 [訳註] 『史通内篇』 東海大学出版会 p.148 9行目)
※西脇先生による注釈のなかでの一文です。
1990年
以上のことから,主題構文の構造としての (9) に対する西山 (1989) のクレームはいずれも的を得たものとは言えず, (9) および (8) は主題構文の統語構造としてはおおむね妥当なものと考えられる。
(柴谷方良「助詞の意味と機能について ―「は」と「が」を中心に―」『文法と意味の間 ―国広哲弥教授還暦退官記念論文集―』くろしお出版 p.297 6行目)
1993年
したがって〈台=胎〉は甲骨文や金文に対して、後人によりさまざまな解釈が加わったもので確定的な答えはなお未詳と思う。ただ、長女の説が意外に的を得ているのではあるまいか。
(杉本つとむ『漢字 女偏のルーツとドラマ』 東京書籍 p.91 3行目)
※杉本つとむ『杉本つとむ著作選集9 西欧文化受容の諸相』 (八坂書房 1999年 p.401 1行目) には、「あえて注釈を加える必要のないほど論理整然、まことに的を射た主張である。」という記述があります。
1994年
論文の筆者自身が、台湾のアウストロネシア系言語の優れた調査者であるので、その注意は的を得ており、このような論文はつい項目だけでかたくなりがちであるのに、この筆者は、次々と面白いエピソードをはさんで楽しく読ませる技術を心得ている。
※千野栄一『言語学の散歩』 (大修館書店 1975年 p.346) には、「〔前略〕この見解は的を射ているということができよう。」という記述があります。
1996年
〔前略〕ですから、私が目にしたままのことを答えたのです。さて、それが
※『孔子家語』の通釈の一部です。
※「例言」 (凡例) によると、実際の訳者は尼子昭彦先生 (国立公文書館研究職) となっています。
※「
1996年
その資料の発掘、発見を伝えるのは新聞の文化欄である。記者は伝えるだけだが、必ず解説者がつく。その解説者の多くは文科系統の大学教授である。記事の正こうを期するための――というより、権威づけるためなのだ。ところが、文化系統の大学教授にも専門外がある筈で、その解説が的を得ていない場合が少なくないのである。〔「文科系統」「文化系統」の不統一は原文のまま〕
(佐藤雀仙人『下総と一茶』崙書房出版 p.432 下段14行目)
※『下総と一茶』は雑誌の連載をまとめたものだと思われますが、同書には初出の情報が大まかにしか書いてありませんでした。したがって、上記の引用内容がいつごろ書かれたかは不明です。
※「正こうを期する」の部分が「正鵠」ではなく「正こう」となっているのは、難しい「鵠」の漢字を使うのを避けたためでしょうか。そうだとすると、「的を得ていない」の箇所も、同じ理由で「正鵠」を「的」に置き換えたのかもしれません。
※野間教育研究所での講話 (1991年12月3日) を文章化したものです。
※谷沢永一『疲れない生き方』 (PHP研究所 2007年 p.105 12行目) には、「また、適正という推察について、親や教師の観察が常に的を射ているとはかぎりません。」という記述があります。
1999年
このように,量化的変異の問題は叙実性とは無関係に起こりうるのであって,Bermanが主張した,叙実性と量化の多様性の間の相関関係は的を得たものではないようである。
(西垣内泰介『論理構造と文法理論 ―日英語のWH現象―』くろしお出版 p.81 13行目)